私の「琴線」

(この記事はtwitterログなど色々を再編集したものです)

「私はこれが見たいから色々なものを読んだり見たりするし、話したり書いたりするんだ」というシチュエーションや関係性。
それを私は「理想」と呼んでいました。たぶん今後は「琴線」と呼びますけど。かっこつきの。
以下は、現時点での私の「琴線」って何だろう?という思考のまとめです。


この相手と自分は相容れない、この相手は自分を理解しない、この相手といて幸せになれる保証はどこにもない。
それでもこの相手に近づきたい、この相手を理解し理解されたい、この相手と一緒にいたい。
と思ってしまうなら、それは、愛だよなー美しいなー私まねできないなーみたいな。

人と人が理解しあえないとか一つになれないのとか当たり前じゃないですか。
あたり前のことを苦痛と感じるって、すごい。すごいし、いっそ尊いし、美しい。

絶対完全に理解なんてしあえないのに、
ちょっとでも理解しあえるかも、近づけるかもっていう希望を持ったまんま、
限りなく近づこうとしている人は、美しい。

だって、本当は完全に理解しあいたいんだとしたらですよ。それは絶対に無理だって保証されちゃってるんですよ。
限りなく完全に近い形で理解しあったって、絶対にそれは完全じゃない。そしたらそれだけでも悲しかったりするんじゃないでしょうか。わからないですけど。

決められたバッドエンドが、限りなくハッピーエンドに近いものになるようにと、
あがいて、がんばって、前を向いて進んでいく人がいるのだとしたら、
それはとても悲しくて、尊くて、美しいなーと私は思うのです。

私は「利己的でない愛情」は信じてますが、「利己的でない恋愛感情」はたぶん信じていません。
今言っていた「美しい」感情だって、「それでも理解したいから」っていう、ある意味利己的な感情からじゃないかな、と思っています。

でも逆に考えたらですよ。
利己的な感情から相手を理解することや相手の幸せを願うって、これ、利己的でない感情から願うより、すごくないですか。
いろいろ人間くさい生々しい感情、下心だとか性欲だとかも混じりながら、それでも相手の幸せを願う、みたいな。

人間って絶対、本当に純粋なままじゃ生きられなくって、だけどそれでも何かのために純粋を目指しちゃうんなら、
それは、ほんと、すごいなあ。すごいなあ!っていう、そういうことなんだと思います。たぶん。

素朴なツンデレに萌え

過剰反応というよりは、ぼそぼそっとしたツンデレが見たい。
「べっ、別にアンタのためなんかじゃないんだからねっ!」よりは、
「……別に、アンタのためじゃないわよ……」の方が断然見たい。
十分バレバレであからさまにツンデレなんですけど、まあ、ニュアンスの差。

でも、そういう、どっちかというとドライ分がまだ残ってるツンデレをわたわたさせるのはまた格別。
別にまくしたててくれなくてもいいんだ。くれてもいいけど!おいしいけど!わけわかんないこととか思わず本音とか萌える!

まくしたててくれなくても、絶句したり、呆れたり、そういうのでいいんだ。
でもちょっとだけ照れ混じっててくれ。顔赤くなんなくてもいいからさ。視線そらす程度でいいんだ。

つまり、過剰装飾なツンデレよりは、シンプルでドライなツンデレが好きなんですよ。きっと。
要は、チラリズム?

ていうか私のこの好みは、まことに、SとMをあわせもっているなーと思う。
軽くいじめられたい!軽くいじめたい!その両方を満たすキャラクター造形。

「ツン→デレ」というより、もはや「ツンとしたデレ」

いわゆる「ツンデレ」、「別にアンタのためじゃないんだからねっ」系は、当初の「ツンデレ」から2、3回意味が変化しちゃってると思うんですが、それはそれで好きです。

でもこれ、ある意味デレ倒しですよね。「ツンとしたデレ」だっつうか。意識しちゃってるの丸分かり。かわいい。

もっとツンな時はツンで、かつデレがさらりとぽろりと出るツンデレも、大好物です。ツン7のデレ3で。8:2でもいいな。

まあ、「ツンデレ」も色々あれど、共通しているのは「ツンツンしてる内が花」だと思います。
完全にデレちゃったら面白くないです。何のためのツンなのかと。

…なんか、靴下は残すとかと同レベルの主張してる気がして来た…。